「イカキングは海に帰らなかった」

リアス式海岸では湾内に入った津波が湾奥で迫り上がる。東日本大震災では九十九湾と似た地形の湾内で大きな被害があった。

「もし営業日だったら、どうなったことか」と身震いする近隣住民もいる。おそらく避難騒ぎになっただろう。

ただ、イカキング自体に目立った被害はなかった。

このため「イカキングは海に帰らなかった」として、「復興のシンボルにしよう」という声もあるのだという。そうした報道が多数なされている。

具体的にはどうなのか。能登町役場のふるさと振興課に聞いてみた。

「イカキングは津波に耐えて、流されませんでした。海に帰らなかったことから、それに引っ掛けてPRに使いたいなと思っています。ただ、本決まりではないのです。まだ内輪で話をしている段階で、外に出せる状態ではありません」と担当者は語る。

では、地元の人にとって、被災後のイカキングはどのような存在なのか。

聞き歩くと、「復興のシンボルですか? うーん」と、複雑な表情で言葉を呑み込む人が多かった。

いったい、どういうことなのか。

津波で浸水、自宅の1階が丸呑みされて

イカキングがあるのは下市之瀬という45軒ほどの集落だ。

津波で浸水した家屋が多かった。

自宅の1階が丸呑みにされた北川幸弘さん(70)もそうだ。

工務店を経営している北川さんは3階建ての住宅に住んでいた。1階は作業場、2階と3階が住居。その時、北川さんは2階にいた。

能登半島地震では2回の激しい揺れが起きた。最初は2024年1月1日午後4時6分。隣の珠洲(すず)市で最大震度5強を計測し、能登町は震度4だった。

「この程度なら逃げない」と言う人もいるだろうが、北川さんはすぐに屋外に飛び出した。

というのも、能登町などの奥能登地域では2020年12月から群発地震が起きていたからだ。いつ激しい地震に見舞われるとも分からないと警戒していた。

「揺れが大きいと感じたら、すぐに逃げる心構えができていました。でなければ、家の下敷きになってしまいます」と語る。

4分後の午後4時10分、今度は立っていられないほどの揺れに襲われた。輪島市などで震度7を記録、能登町は震度6強だった。

「長い揺れでした。あまりに酷かったので、津波が来ると直感しました」と北川さんは話す。

自宅には北川さん夫妻、そして正月で帰省していた娘の一家3人の計5人がいた。車は4台。置いて逃げれば水没必至だ。4台全てに乗って、目の前の県道を高台に走らせた。

標高43mの地点が、能登町の指定する緊急避難場所になっていたのである。